赤い太陽のポスター
東京オリンピックまでは、シンボルマークなどは存在せず、五輪マークしか使われなかった。今となっては慣例になっている大会独自のシンボルマークを提案し、作ったのはグラフィックデザイナーの亀倉雄策氏である。
亀倉氏の指示により、第2号のポスターは、スタートダッシュの写真を使うことになった。暗黒の空間に選手の姿が折り重なるように撮って欲しいというリクエストを受けたが、速い動きにはフラッシュは使えない。東京中からストロボが集められ、今までにない撮影手法で、何度もテストが繰り返された。選手は30回ものスタート繰り返すことになった。
このポスターにより、亀倉氏は世界的に認められることとなった。そして、多くの日本にとっては、初めて印象に残るポスターとなった。
リアルタイムシステム
リアルタイムで競技の結果を集計したのは、東京オリンピックが初めてである。当時、日本電信電話公社が持つ電話線はアナログで、デジタル情報の伝送技術は完成したばかり。機器もアメリカのIBMから購入して運ばなければならなかった。
リアルタイムと言っても、どれほど役に立つかという認識すらなかったため、協力者に理解を得るのも困難であった。システムの開発を任されたのは、日本IBMの32歳のエンジニア竹下亨氏であった。
竹下氏は限られた時間の中で、初めてのものばかり使い、開会式直前までシステムの開発に追われた。リアルタイムシステムは、その場にいなくても他の会場の競技結果がわかるため、取材する人の少ない小国のメディアからも喜ばれた。
選手村の食事
オリンピックでは通常、ケータリング業者が契約し、営利事業で給食を担当する。しかし、東京オリンピックでは、日本ホテル協会が、実質無償で業務を請け負った。様々なホテル等から料理人を集め、選手村を分担した。
最大の課題は「エスニック料理をどうやって調理するか」であった。フランス料理などの西洋料理のコックはいたが、当時、東欧、中近東、アフリカといった国々の料理を作るプロはいなかった。料理人たちは、大使館などから教わり、大急ぎで料理をマスターしていった。
また、選手村食堂の責任者を任された帝国ホテルの料理長村上信夫氏は、2万人分の食糧をまかなうために冷凍食品を材料に使わざるを得なかった。そのため、ニチレイと共同で様々な材料の冷凍方法と調理法を研究した。
戦前の軍隊経験のある村上氏は「お国のために」と言って、一円にもならないにも関わらず、オリンピックの場で働いた。