日本一のYouTuberになる
高校卒業後、上京。都内のスーパーに就職し、食品部門で働く事になった。就職後も時間を作っては、ビートボックス動画をYouTubeに投稿し続けていた。会社の寮の狭いワンルームの隅が撮影現場。パソコンの内蔵カメラと1万円くらいのマイクを武器に動画を撮影&編集しては、YouTubeにUPする日々だった。
その頃の目標は、動画へのアクセスに応じた広告収入が得られるYouTubeパートナーになること。数年前までは、YouTube側からのオファーを受けるか、厳しい審査に合格する必要があった。2010年1月に自己申請したが却下。その時に、YouTube側からオファーさせてみせると決めた。この頃から「見る人側」の視点に立って動画を作ろうという意識が生まれた。
2010年6月、UPしたゲームのビートボックス動画が米国で話題になり、海外からのアクセスが殺到。米国のYahooのトップニュースになった事で、24時間で20万アクセスを記録。YouTubeからオファーのメールが届いた。
YouTubeパートナーとして、活動を始めて1年ほど経った2011年6月、日本で初の「YouTubeパートナーフォーラム」に参加。動画コンテストに参加したが落選した。この挫折をきっかけに会社員を続けながら、コンテスト入賞者を抜いて、日本一になると決めた。
睡眠時間を削って動画作りをしながら、同時に日本や海外のトップクリエイターたちの人気チャンネルを巡り、ヒットしている理由を細かく分析した。動画冒頭で人を惹き付ける方法、チャンネルに表示されるサムネイル(静止画像)のスタイルやタイトル、リンクの貼り方、映像の編集など。普通のユーザーなら気にも留めないような小さな工夫を、1つ1つ積み上げて動画作りをする事で、結果的にアクセス数が集まり、チャンネル登録者が増えていく事に気付いた。
2011年10月、YouTubeパートナーとしての月収は、会社員としての給料を軽く超えていた。そして2011年12月、「HIKAKIN」チャンネルの登録者数が日本一になった。翌月に会社を退職し、今日に至るまでYouTubeを中心に生計を立てている。
YouTubeが人生を変えた
2013年5月、シンガポールで「Social Star Awards 2013」というイベントが開催された。このライブの合間に、会場でパフォーマンス動画を流したいとオファーがあった。その前日、「エアロスミスから一緒にライブをしたいというオファーがあった」と連絡を受けた。まさに奇跡。
「YouTubeでお金を稼ぐこと」を第一に考えると、必ず失敗する。まずは大好きなこと、続けられることをテーマに、楽しみながら地道に動画を作り続けていった先に「YouTubeでお金が稼げる」ようになる。