それがどうあるべきか
ジョニーが受けたデザイン教育はドイツ的なアプローチが基になっている。過去の上に積み重ねるのではなく、白紙のページに描く。デザイナーは必要なものだけをデザインすべきだというミニマリスト的な哲学は、ドイツの伝統教育の流れを組み、ジョニーのデザイン哲学もまた、その事を強く意識している。
ジョニーは学費を援助してくれたRWGでインターンとして働いた。そこでジョニーがデザインしたペン、TX2が製造される事になった。インターンのデザインが生産されるなど前代未聞だった。大学卒業後、ジョニーはRWGに入りよく働いた。しかし、RWGは業績が苦しくなり、タンジェリンに移った。電動工具から櫛からテレビ、トイレまで、ありとあらゆる仕事を引き受けていた。
ジョニーは、あるべきものを正しく作ること、それが目的にかなっている事をいつも気にかけていた。彼の関心は、テクノロジーに人間味を持たせる事だった。「それがどうあるべきか」が常に彼のデザインの出発点だった。どんな既存製品があるかや、エンジニアが何を望んでいるかを排除する能力がジョニーにはあった。彼はプロダクトデザインやユーザーインターフェースデザインの根本に立ち戻る事ができた。
アップル入社
1992年、27歳のジョニーはアップルに入社した。当時のアップルはデザインをフロッグに外注していたため、社内にデザイナーはいなかった。そこで、ロバート・ブルーナーは才能あるデザイナーを採用し、チームを作り、その内の数名はアップルに何十年も残ってiPhoneやiPadを含む一連のヒット商品を生み出した。ブルーナーはエンジニアリングからデザインに力を取り戻したかった。そこで、エンジニアリング部門からスタジオを切り離し、ゆるやかな組織構造、協調的な仕事の流れ、コンサルタント的な考え方を取り入れた。アップルのデザインチームが今も成功し続けているのは、この構造を引き継いでいるからだ。
ジョニーのアップルでの最初の大仕事は2代目ニュートン・メッセージパッドのデザインだった。そして、ジョニーは業界の権威ある省を次々と受賞した。
デザイン主導の文化へ
1997年、経営不信に陥っていたアップルにスティーブ・ジョブズ復帰する。彼は工業デザインをアップル再建の核に据える。ジョブズにとって、デザインは見かけ以上のものだった。「みんなはデザインをお化粧だと思っている。それはデザインじゃない。外見と感覚だけじゃないんだ。デザインは、ものの働きなんだ」と言っていた。
そして、ジョブズはジョニーを気に入り、スタジオをそのまま任せる事にした。その後、iMacとiBookの成功が、アップルのエンジニアリング主導の文化をデザイン主導へと変えた。