働くとはどういうことか
人類は、子孫を確実に残すために、晩熟性という戦略を選択した。晩熟性とは、新生児が生まれてから乳離れまで長い時間が必要だという事である。長期の成長期が必要だという事は親が長期的に世話する必要があるという事になるが、親だけで子育てする事には無理がある。すると、母親以外のものが子育てを手助けする事が不可欠になる。その結果、群れ全体で子育てをするという事で負荷を分散する事になった。これが、人類の起源であり我々に刻印されている本能である。「群れ」で子育てをする。自分の子供ではない子供を育てる共同作業、ここに「働く」事の原点がある。
江戸時代には、仕事という言葉の意味が2つあったという。1つは「カセギ」、これは日々の収入をもたらす仕事を指していたが、それを行うだけでは、一人前と見なされなかった。もう1つの「ツトメ」は火事の消火活動や病人の看病、橋を造るといった事まで含めて共同体を維持する活動の事である。江戸時代には「カセギ」と「ツトメ」の両者を果たして、初めて一人前だった。
地域社会や国家のセーフティネットの脆弱性があらわになってきている現在、自分を包摂するコミュニティが必要となっている。人間は本来群れで生きるものだからである。コミュニティ内で「カセギ」だけではなく「ツトメ」を果たす事も必要なのだという江戸時代の考え方は、再度注目する価値がある。
はたらく事で自由になる
生活するためにお金を稼ぐ必要はあるし、仕事はそのための手段である。しかし、仕事=自己の金銭的利益のみの追求と考えるのは、結局のところ自分を不幸にする原因になりかねない。「稼ぐ」ために生活を犠牲にしてしまうと、「はたらく」事から得られる幸福感を感じる事ができなくなってしまう。仕事が隷属的賃金労働に向わないためには、個人の仕事に対する向き合い方、労働環境に対する見方、つまり常にその外部があり、環境を変える事に働きかける事も、今とは異なる環境に移動する事も可能なのだという見方が必要である。
仕事が対他者性を持つものである限り、社会と仕事は切り離す事はできない。仕事を通じてよりよい環境形成に貢献する事で、仕事から満足感を得る事になり、さらに自分の仕事が必要とされる新たな環境を生む事にもつながっていく。そうして仕事が持続可能なものになっていくという好循環が生まれる。
「はたらく」事で社会とつながり、互酬性が信じられるコミュニティを形成していく。互酬性が信じられるコミュニティが形成される事でセーフティネットが生まれ、自由な行動が大きなリスクを伴うものでなくなる。つまり、「はたらく」事で自由になれるのである。