ニッチなマーケットを狙う
当時、羽生蒸留所には、祖父と父の代で造ってきた20年近く熟成しているウイスキーの原酒が眠っていた。この羽生の原酒を守り世に出すことが、ベンチャーウイスキー創業のきっかけだった。羽生の原酒の引き取り先を探した結果、郡山市にある笹の川酒造に買い取ってもらう代わりに、商品化から営業まで責任を持って行うことが条件とされた。
最初の製品化は2005年、ボトルはウイスキー向きの汎用瓶が見つからず、ワイン瓶を使った。ブランド名はイチローズモルトと名付けられた。営業は、まともにマーケットで大手と戦っても絶対に敵わないことは明白だった。そこで、ウイスキーを評価して発信してくれるのはバーテンダーさんだと思い至り、バー巡りを始めた。都内を中心に巡ってバーテンダーさんに直接イチローズモルトを紹介する生活を2年間続けた。
バーのボトルの回転はそんなに早くない。1本のボトルが空になるのに1年以上かかることも普通にある。だから大手メーカーが積極的に営業をかけてこず、当時はニッチなマーケットだった。肥土社長はさらにバーに直接卸すのではなく、そのバーが取引している酒屋を聞き出し、そこを経由して売っていった。酒屋は当然、他のバーとも取引があり、今度は酒屋が語り部としてバーテンダーさんに商品を薦めてくれる。製品を理解してくれる人に集中してアプローチをかけることで、自分の代わりに「語り部」になってくれる人を増やす。これこそ小さい会社が効率よく営業をする極意であり、イチローズモルト成功の大きな要素と言える。
勝機は個性にある
最初にボトリングした600本を販売していく中で、シングルモルトウイスキーの市場に確信を持った肥土社長は、すぐに第2弾の検討を始めた。そこで思いついたのがシングルかすく。1つの樽からボトリングし、一切ブレンドせず樽の個性をそのまま出す方法である。シリーズとして最初にリリースした1本が、本場イギリスの専門誌「ウイスキー・マガジン」で、日本産ウイスキーとして最高得点を獲得した。肥土社長の営業戦略で特徴的なのは、常に海外を見据えている点である。
ブランドは結果論に過ぎない
祖父や父から受け継いだ400樽の原酒はいずれ確実になくなる。そこで、生まれ故郷である秩父に蒸留所をつくった。シングルモルトウイスキーは個性を楽しむもの。その土俵では、小さな蒸留所でも生き残っていけることに気づいた。製造にあたっては、伝統的かつ本格的な技法を継承しつつ、素材や生産設備に相当なこだわりを持った。ベンチャーウイスキーは、地元秩父でつくられた大麦を自社でフロアモルティングして麦芽をつくり、さらにウイスキーを造ることに挑戦している。メーカーである以上、エネルギーを割く方向性はものづくりであるべきで、ブランドは後から付いてくる。