禅の本質とは何か。近年、多くのビジネス界のリーダーに注目されている禅の教えを紹介している一冊。
■仏教の本質は得ることではなく失うこと
仏教を信じたからといって、すぐに何かが得られるわけではない。仏教、特に禅の教えは何かを得るための手段ではない。むしろ、失うためのものである。
1つの食べ物にしても、それが好きな人もいれば嫌いな人もいる。好きや嫌いといった嗜好は、生まれた当初はなかったはずである。しかし、生きて色々な経験を積むうちに自然とそうした気持ちが生まれてくる。また、知識や分別といったものが身についてくることによって、いろんな判断を下すようになる。生きる中で身につけてきたそれらのものによって、人間はだんだんと物事を素直に捉えられなくなる。
禅の世界には「童心是れ祖心に通ず」という言葉がある。祖心というのは、仏教の本質を見抜かれた素晴らしい老師方の心。それが「童心」、子供の心と同じであると。即ち、子供の心のように何にもとらわれることなく、何事をもあるがままに受け取ることこそが肝要である、生きていく過程で自然と身についてしまった知識や分別などを削いでいくことで「童心」に近づこう、というのが仏教の考え方である。
■仏教の本質
仏教と言うのは、何らかの神を信じているのではない。釈迦という人間が悟りを得たということを信じている。しかし、その悟りの中身はわからない。彼がどのような境地に達したのかは誰にもわからない。だからそれが何なのかを自分で知ろうというのが仏教の修行者のそもそもの動機である。その先に何があるのかはわからない。でも何かがあると信じて、釈迦と同じように苦行を積む。それが仏教や禅の本質である。
釈迦の悟った中身は何なのかという、もっと超越したところへ目を向ける。そして、もし悟ることができたとしても、それで満足して終わってはいけないと禅では考える。大切なのは、悟りを得たらその経験を世のために使っていくこと。禅の修行はあくまでもその手段にすぎないのである。
■無とは何もないことではない
心を無にすることは、禅の修行においてとても重要だと考えられている。何かを吸収するために最も良い状態は、空っぽであることである。
「無」は、単に何もないということではない。無尽蔵の無である。一見何もないように見えるところにこそ、無限の可能性や広がりが潜んでいると言える。心が空っぽになるとは、まさにこういう状態である。長い時間かけてこの状態に至ると、あらゆる物事が自然と理解できるようになってくる。
著者 松山 大耕
1978年生まれ。妙心寺退蔵院副住職 埼玉県新座市・平林寺にて3年半の修行生活を送った後、2007年より退蔵院副住職。2009年、政府観光庁Visit Japan大使、2011年より京都市「京都観光おもてなし大使」。 2016年『日経ビジネス』誌の「次代を創る100人」に選出される。2011年には、日本の禅宗を代表してヴァチカンで前ローマ教皇に謁見、2014年には日本の若手宗教家を代表してダライ・ラマ14世と会談し、世界のさまざまな宗教家・リーダーと交流。2014年世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に出席するなど、世界各国で宗教の垣根を超えて活動中。
帯 MITメディアラボ所長 伊藤 穰一 |
章名 | 開始 | 目安 | 重要度 |
---|---|---|---|
はじめに ダボス会議で「禅」を求めたリーダーたち | p.3 | 8分 | |
第一章 世界のリーダーはなぜ”ZEN”が好きなのか? | p.23 | 22分 | |
第二章 外国人に「禅」は分かるのか? | p.61 | 21分 | |
第三章 禅は「グローバル」に通じる道 | p.97 | 22分 | |
第四章 ビジネスパーソンに贈る「実践できる」禅の教え | p.134 | 36分 | |
第五章 「おわりに」に代えて | p.195 | 5分 |
「今この瞬間」の自分の体験に注意を向けて、現実をあるがままに受け入れること。 瞑想をベースとした、エ…
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