止まって、休んで、また進む
人生いつも先に、先にという意識でいたら疲れて、いつか息切れしてしまう。階段には必ず踊り場がある。その踊り場で一息つくから、長く続く階段も上がりきることができる。踊り場で立ち止まって、今上って来た階段を眺めると、新たな発見や気づきがある。それが次の階段を上がる際に役に立つ。
立ち止まることは自分を見つめ直すこと。自分の在り方、生き方を検証することと言っていい。そのことなしには、人生を正しく、自分らしく歩んでいくことはできない。自分を見失わないためにも、立ち止まるのがいい。
1つ1つの所作に心をのせる
禅では「行住坐臥」、全てが修行だと考える。歩くことも、とどまることも、坐ることも、寝ることも、一切合切が修行である。あらゆる立ち居振る舞い、動きの1つ1つが修行だから、粗末にしたり、ぞんざいに扱ったりして良いことは1つとしてない。どれもが「心をのせた」動きでなければいけない。それが禅の考え方である。
心を込めた所作、心ののせた動きは、ゆったりとして丁寧なもの。ゆったりと動くことでそこに心がのってくる。動きがバタバタとせわしなく速いものになっている時は、まず呼吸を整えること。すると、心が落ち着いてくる。
ほんの少し、歩調をゆるめてみる
ゆっくりと歩くと、周囲が見えてくる。感性が働き始めて、自然が感じられるようになる。ゆっくりと歩を進めていると、木々の葉の擦れ合う音や鳥のさえずり、花の香りや風の匂い、空気の冷たさ暖かさまで感じられる。自然の移ろいをそのまんま受け取ることができる。
自然の移ろいを感性いっぱいに受け止めることは、生きてる実感をヒシヒシと感じることにつながっていく。すると、幸せが心の底から湧き上がってくる。時にそんな時間を持ったら、人生はずっと瑞々しく、豊かなものになる。
雑念は雑念のまま受け流す
坐禅をしていて、いろんな思いが浮かんでくるのは仕方がない。それを「考えてはいけない」と追い払おうとするから、とらわれてしまう、縛られてしまう。浮かんできた思いも、考えも、放っておけばいい。放っておいたら、自然に消えていく。思いも、考えも、心を通り過ぎるだけで、決してそこにとどまって、心を縛ることはない。
1日の終わりに1つ静かに椅子やソファなどに坐って、しばし時間を過ごすといい。慌ただしくすぎていった1日を「自由な心」で締め括る。そんな習慣が人生をきっと潤いあるものにする。