不死と退屈のジレンマ
死は人生における良いことを剥奪するから悪いのであるなら、最も望ましいのは永遠に生きることなのだろうか。
仮に人生には良いことがもう残っていないとする。それなら、死によって人生を奪われた時、良いことを1つも剥奪されていないから、その時点では、本人にとって死ぬのは悪いことではない。死が悪いのは、その後送っただろう人生が、全体として、本人にとって良い時に限られる。
不死は実は望ましいものではないだろう。不死の人はただ長い時間生きるのでさえなく、文字通り永遠に生きるということだ。そして、永遠にやりたいと思えるようなことを考えつくのは、不可能であろう。やがて退屈な状態に陥る。結局、最善なのは、自分が望むだけ生きられることではないか。
いずれ死ぬ人生で何をすべきかを考えよ
私たちがいずれ死ぬという事実はさらに、もっと具体的な気配りも必要とする。自分の人生をどうしているかについて、用心しなくてはいけないのだ。私たちは、死を免れないという事実、限られた寿命しかないという事実を踏まえて、人生を台無しにしうることにも気づかなくてはいけない。
いずれ死ぬのだとしたら、どう生きるべきなのか。1つは、あまり時間がないのだからできる限り多くを人生に詰め込むべきだと言うものだ。そこには、2つの大まかな戦略がある。
①志があまりに野心的だと失敗するという危険性を強調する
野心的になる代わりに、達成することが事実上保証されている種類の目標を目指すことを勧める。食べ物や交際、セックスの喜びを目指すように言う。
②人生における良いことの内でも際立って価値の高いものにも目を向ける
良いことの内でも、より野心的なものは、成功を保証されていないが、人生が私たちに提供しうる内でもとりわけ価値がある。
多くの人は、この①と②を適切に取り混ぜることを目指すというかもしれない。有意義な実績を特定の数だけ目指すべきだろう。それは達成できれば人生の価値が高まる。一方で、同時に小さな目標もあれこれ加えるべきだ。人生から少なくとも何かしらを得ることが保証されるように。
死と仏教
もし悲観主義者が正しくて、人生は送る価値がないなら、人生を剥奪されるのは結局悪いことではなく良いことでもある。だとすれば、人生をできる限り価値あるものにするのではなく、むしろ、人生は全体としてプラスではなくマイナスだと気づくことがカギとなる。
人生は通常思われているほど良いものではなく、そのため人生の喪失は結局悪いものと見る必要はない、というのは東洋的な見解だ。仏教徒はこの判断に基づき、良いものへの愛着から自分を解放し、それらを失った時の痛手が最小限になるようにしようとする。私たちは、どうすれば人生を最も価値のあるものにできるかを問う必要がある。