何事にも理由を添える
行動に「理由を添える」だけで、その行動は周りからの理解と譲歩を得やすくなる。その理由が意味をなしているかどうかは重要ではない。「◯◯なので」というだけで、その行動が正当化される。
人間は「理由」を知りたがる。たとえ根拠のない理由であっても、私たちには理由が必要である。
意志の力を回復させる
比較し、吟味し、決断をすると、私たちは疲労困憊してしまう。これを「決断疲れ」と呼ぶ。意志の力はバッテリーのように機能する。この意志の力を充電するには、休憩をとったり、リラックスしたり、何かを食べたりするといい。「血糖値」が下がりすぎると、意志の力は衰える。
考えすぎを避ける
考えすぎると、頭は感情の知恵から切り離されてしまう。感情も、明晰で合理的な思考も、発生する場所は同じ「脳」だ。感情と合理的な思考では、ただ単に情報処理の仕方が違うだけ。感情の方が原始的だが、必ずしも質が劣るとは限らない。それどころか合理的な思考よりも賢明な見解を示すことも多い。
体に身についている動作、特に運動能力に関わることや、既に数えきれないほど答えたことのある問いに対しては、考え込まない方がいい。直感的に答えを見つける過程を不必要に妨げることになる。その一方で、進化の過程には存在しなかった複雑な状況においては、冷静にじっくり考えた方がいい。そういう場合には「直感」よりも「論理」の方が役に立つ。
学問で得た知識だけに頼らない
知識には2つの種類がある。「言葉にできるもの」と「できないもの」だ。私たちには、「言葉にできる方の知識」を極端に過大評価する傾向がある。私たちは知識人や学者や理論家や文筆家や作家やコラムニストを過大評価し、実務家やものづくりに携わる人を過小評価してしまいがちだ。
だが本を読んだり思索をめぐらせたりしても、アイデアを思いついたり、新しい製品を完成させたり、何らかの能力を身につけたりできることはまずない。それができるのは、主に実際に試したり実地で見て覚えたりした時だ。私たちは、泳ぎに関する本を参考にしながら泳ぎ方を身につけた訳ではない。「言葉にできる知識」の問題点は3つ。
①言葉にできる知識には曖昧なところがない。本に書かれているような明快さは、現実の世界には存在しないため、書かれた知識をもとに決断を下すと過度なリスクを背負いこむことになる。
②本を書く人の頭の配線は、本を書かない人とは違っている。
③言葉は能力をカバーできる。表現に長けた人は能力以上の地位を獲得できる。
重要な知識は実践を通して得られるもの。書かれた文字に畏敬の念を抱くのはやめた方がいい。